夏になると毎年各地で開催される花火大会ですが、どうして夏にするのか?
花火大会の由来は?
当たり前のように夏は、花火大会というイメージがありました。
今回は、花火大会が、なぜ夏にするのか、由来について調べてみました。
花火大会はいつから始まったの?
夜間など煙が見えない時は、火そのものが使われます。
中国からヨーロッパ、そして日本に伝わりました。
ヨーロッパに伝わったのは13世紀以降
初期のものは祝砲の音を大きくして、煙に色などがつくようしたもの。ヨーロッパでの主な生産地はイタリア、火薬と花火製造が盛んに行われていたようです。
鑑賞用の花火は14世紀のイタリア・フィレンツェに始まり、キリスト教の祝祭で用いられる人形に口から火を吐く仕掛けのために用いられたとされています。
花火日本での歴史
日本において花火の初使用が、いつ、どこで、どんな機会に行われたのかは定かでないそうです。
古い記録は、室町時代の公家万里小路時房の日記『建内記(建聖院内府記)』の1447年5月5日(文安4年3月21日)条に、浄華院における法事の後に境内に、「唐人」が花火と考えられる「風流事」を行ったという記事があるようです。
そこで、竹で枠を作り、火で「薄・桔梗・仙翁花・水車」などの形を表現し、火が縄を伝って行き来するといったものや、「鼠」と称し火を付けると「走廻」るものや、手に持って火を付けると空中を「流星」のように飛んだものなどが披露されたそうです。
時房は「希代之火術也」と賞賛して褒美を与えたそうです。
この時代は足利義満の死後途絶えていた日明貿易が足利義教によって再開され、花火も大陸から持ち込まれていたとも考えられる。
戦国時代は鉄砲や火薬とともに鑑賞用の花火が伝来。
日本でも花火が製造されるようになったとされていますが、以後もキリスト教宣教師や「唐人」といった外国人の手による花火の記録が多く見られるとのことです。
1582年4月14日(天正10年3月22日)にポルトガル人のイエズス会宣教師が現在の大分県臼杵市にあった聖堂で花火を使用したという記録(「イエズス会日本年報」「フロイス日本史」)は、大友宗麟が花火を活用して聖週間の祭儀をキリシタンを増やすために盛大な公開イベントとしたという。
『駿府政事録』『宮中秘策』『武徳編年集成』等の書物によると現代の花火に繋がる花火を一番初めに見たのは徳川家康とされる。
1613年8月、英国人ジョン・セーリスが国王ジェームズ1世の国書を携えた正式な使者として駿府城を訪れた際に花火を見せたととのこと。
徳川発祥の地である、岡崎を中心とした三河地方は江戸時代、徳川幕府によって唯一、火薬の製造・貯蔵を公式に許可されていた土地であった。
そのような歴史もあって花火は昔から岡崎を中心とした三河地方に普及発達し、全国に三河花火の名を残してる。
その名残か現在においても三河・遠州地方周辺は全国的にみて煙火の製造業や問屋が多く集積しています。
花火大会を夏にするのはなぜ?
1733年、畿内を中心に飢饉に見舞われ、江戸ではコレラが猛威を振るい多数の死者を出した事で、将軍吉宗が死者の慰霊と悪霊退散を祈り両国大川(隅田川)の水神祭りを開催、それに合わせて20発前後の花火が披露され、これが隅田川川開きの花火の起源になったと言われています。
花火大会が夏にする理由は、お盆の時期に合わせてるから。
夏の風物詩・花火は、送りお盆の時期に魂の鎮魂のために打ち上げられたもの。
お盆の期間が、15日が中心であるのと。13日~16日までが多い。
花火の打上げのかけ声の「たーまーや」「かーぎーや」の意味は?
花火大会の打上げる時に、大きな声で「たーまーや」「かーぎーや」のかけ声をかけるの聞いた事ありますよね?
私も、子供の頃によく聞いたものですが、当時はその意味も知らなかったのですが、調べていくとその意味が・・・
そうこれは、花火師の名前なんです。
2013年時点で現存する日本で最も古い花火業者は、東京(当時の江戸)の宗家花火鍵屋であり、1659年に初代弥兵衛がおもちゃ花火を売る。鍵屋初代弥兵衛は大和国篠原(吉野郡、後に奈良県五條市)出身、幼少の頃から花火作りに長けていたとそうです。
1659年、江戸に出てきた弥兵衛は葦の中に星を入れた玩具花火を売り出す。弥兵衛はその後研究を続けて両国横山町に店を構え、「鍵屋」を屋号として代々世襲するようになり、現代に続いている(2018年時点で15代目)
その後も、大型花火の研究を進めて、1717年には水神祭りに合わせて献上花火を打ち上げている。1733年、畿内を中心に飢饉に見舞われた江戸ではコレラが猛威を振るい多数の死者を出した暗い世相の中、将軍吉宗が死者の慰霊と悪霊退散を祈り両国大川(隅田川のこと)の水神祭りを催し、それに合わせて20発前後の花火が披露され、これが隅田川川開きの花火の起源になる。鍵屋と並んで江戸の花火を代表が玉屋です。
玉屋は六代目の鍵屋の手代であった清吉が1810年に暖簾分けをして、市兵衛と改名し、両国広小路吉川町に店を構えたのが始まりだそうです。このように鍵屋、玉屋の二大花火師の時代を迎えるようになった江戸時代では、両国の川開きは、両国橋を挟んで上流を玉屋、下流を鍵屋が受け持つようになったようです。「たーまーやー」「かーぎーやー」というかけ声が生み出されたとのこと。
当時の浮世絵を見ると玉屋の花火は多く描かれていて、また「橋の上、玉や玉やの声ばかりなぜに鍵やといわぬ情(じょう)なし」(「情」と鍵屋の「錠」をかけている)という狂歌や「玉屋だと またぬかすわと 鍵屋いい」という川柳が残っている事で、玉屋の人気が鍵屋をしのいでいたと考えられました。
1843年5月16日(天保14年4月17日)、玉屋から失火、店だけでなく半町(約1500坪)ほどの町並みを焼くという騒動があり、当時の失火は重罪と定められていたため、又偶然なのか将軍家慶の東照宮参拝出立の前夜であったことから厳しい処分が下された為、玉屋は闕所(財産没収)、市兵衛は江戸お構い(追放)となってしまい、僅か一代で家名断絶となる。
当時は、鍵屋のような花火専門業者の花火は町人花火と呼ばれたそうです。
そのほか、大名らが配下の火薬職人らに命じ、競って隅田川で花火を揚げたということから、これらの花火は武家花火と呼ばれるようになった。
特に、火薬製造が規制されなかった尾張藩、紀州藩、水戸藩の3つの徳川御三家の花火は御三家花火と呼ばれ、江戸町人らに人気がありました。
仙台の伊達家の武家花火も、伊達政宗以来の豪放な藩風を反映させて、仙台河岸の花火として江戸町人の人気があり、見物人が大挙押しかけて、江戸藩邸近くの萬年橋の欄干が折れるという事故まで発生しました。
武家花火は、戦に用いる信号弾のようなものが進化したもので、狼煙花火と呼ばれ、いわば垂直方向に着目した花火で、色や形を楽しむ仕掛け花火を中心だったとの事。
いわば平面に特化した町人花火とは方向性が異なり、この方向の違いを共に取り入れたのが現代の日本の花火技術となった。
花火大会はいつから始まったの?夏にする意味や由来のまとめ
○ 夏に楽しむ花火大会は、中国からヨーロッパ・日本に伝わり、ヨーロッパに伝わったのは13世紀以降
○ 1733年、畿内を中心に飢饉に見舞われて、江戸ではコレラが猛威を振るい多数の死者を出したことから、将軍吉宗が死者の慰霊と悪霊退散を祈り両国大川(隅田川のこと)の水神祭りを開催。
それに合わせて20発前後の花火が披露され、これが隅田川川開きの花火の起源になる。
○ 夏の風物詩・花火は、送りお盆の時期に魂の鎮魂のために打ち上げられたもの。
○ お盆の時期に合わせているので、花火大会は8月が多いようです。
今回は、花火大会の夏にする意味や、由来について書きました。
記事が参考になれば幸いです。
最後まで読んでいただきありがとうございました。